桜上水Confidentialさんが菅原神社絡みで私の文章を話題にしていたので、改めて考えてみると愕然としました。
今なら驚くほど松原の菅原神社の位置が良く理解できます。そして、なぜ下高井戸駅からの直行経路が存在しないのかも分かります。
防衛戦と松原の菅原神社 §
菅原神社のロケーションは、西側に弁天池から始まる北沢側支流があり、水田などの低地の湿地になります。菅原神社そのものは高所にあります。
つまり、非常時には西に対する守りの要として使用できる場所です。
そのようにして使用する場合、西から菅原神社に入る便利な道はあってはなりません。湿地を突っ切って時間を使うか、左右に回り込む回り道を要求される場所でなければなりません。つまり、現在で言うと、下高井戸駅方面から菅原神社に至る便利な道があってはなりません。
便利さの必然性 §
しかし、菅原神社は逆説的に便利なロケーションにあります。松原宿→松原→和泉新田御焔硝蔵という松原の大動脈の経路上に存在します。
つまりここに存在するトリックは、「下高井戸周辺の名所」として菅原神社が紹介されることが多いけれど、実はこの場合の「下高井戸」は駅であり松原のことです。つまり実際には下高井戸の名所ではなく松原の名所です。つまり、下高井戸住人には縁遠いわけです。
何から守るのか §
ここに守りやすい場所があるとして、いったい何から何を守るのでしょうか?
おそらく、有事には和泉新田御焔硝蔵の外郭防衛網の一部となるべき場所でしょう。それと同時に、松原の大動脈と松原そのものを守るという意図がありそう。もし、松原に何かの軍事技術があったのなら、それを守るという意図もあるのかも。
とはいえ、敵は西から甲州街道沿いに来る軍勢でしょうが、可能性としてそれは薄いと言えます。どちらかといえば、将軍が逃げ延びる経路が西です。だから、ここには保険として神社が置かれただけで、特に城などは築いていないのかもしれません。
ちなみに、松原宿は世田谷城という城が守っていますが、これはもっと歴史が古いもので、江戸時代以前の築城になります。しかし、菅原神社は江戸時代に勧請された比較的新しい施設のようです。
更に調べてみると §
なんと、和泉新田御焔硝蔵を取り囲むように寺社仏閣が並んでいる!
菅原神社から南に行くと、和泉新田御焔硝蔵の西側は寺町。神田川を超えると永福寺。そこから東に進むと龍光寺、逆に菅原神社から東に行くと東松原近くに寺町。見事に西に対してU字型のラインで和泉新田御焔硝蔵を取り囲んでいます。
一方で、なぜか東側は開いています。
西から江戸を守るという際に、西からの攻撃に和泉新田御焔硝蔵を守るための配置でしょうか?
かつて寺と神社の区別はほとんど無く、有事には軍事的施設として容易に接収できるとすれば、これは何か意味がある?